あとがき MVノベライズ公開
恋人にも友達にも他人にもなれっこないんだわたしたちは
海へ向かう電車で話しているときも、これといった気まずさはなかった。あなたはいつも通りで、わたしもいつも通りだった。
向かいに座る、明るめの紺スーツの男の人に、わたしたちはどう見えているのだろう。気心の知れた二人の、淡々とした会話。カップルか、それとも仲のいい友達か。だけど、どちらでもない。わたしたちは今日、別れることが決まっているのだから。
わたしたちは高校で付き合いはじめ、べつべつの大学に進学した。最初のうちは、どんなことがあったとか、つぎの土日に予定が入ったとか、なんでも連絡し合っていたけれど、しだいに減っていった。「かっこいい他大の彼氏がいるんだよね?」とか、「高校から付き合ってるなんて素敵だね」とか言われるたびに笑顔であいづちを打つのも、おっくうになった。
きっかけがあったわけじゃない。ほかに好きな人ができたわけでもない。なんとなくあなたに時間を割くのがめんどうになっていき、それは授業やバイトやサークルで疲れていたせいもあるかもしれないけれど、あなたのほうもなにも言ってこないから、自然と距離ができた。連絡もほとんどしなくなった。こんなので、付き合ってるなんて言えるんだろうか。
バイト先のカフェの女性オーナーに話してみたら、早く新しい恋愛をしたほうがいいと言われた。まだたかが大学生で、これからいろんな世界に触れていくんだから、と。その通りだと思ったし、うれしくもあった。
それでも、あなたが「別れよう」と言ったとき、わたしはおどろいた。わたしたち、やっぱり別れるんだな。なにも、反発する気持ちは起こらなかった。別れるのが悲しいからじゃない、こんなかんたんに終わっちゃうんだということに、わたしはおどろいて、涙が流れた。
わたしが泣いたことに面食らって、あなたは少しあわてていた。だけどわたしは、自分もそれがいいと思っていたなんてことは言わず、ただ、うなづくだけにしておいた。たぶん、あなたに罪悪感でも与えたかったのだろう。こんな嫌な女とは別れて正解だ。
それもあってか、あなたは、「最後に一度、どこかに出かけない?」と言ってきた。縁を切るみたいな、嫌な感じで終わらせたくないから、と。最後のデートなんて、思いやりがあるのかないのかよくわからない提案だが、あなたらしいとも思った。断る理由もないので、わたしは同意した。
スーツの人が降りたとき、わたしは、「さっきの人、何回もパソコン開けたり閉じたりしてたよね。ずっと開けっぱなしにしとけばいいのに」と言った。そしたらあなたが、「おれもそれ思ってた」と言うから、二人で笑った。
どうして海にしたの、と訊いてみる。
「海、行ったことなかったじゃん。何年も付き合ってるのに」
ほかの乗客に聞こえないようにか、わざわざ声をひそめてそう言ったのが、少し可愛かった。
目的の駅に着いた。駅前が明るい日差しに包まれている。
コンビニでお茶を買って、少し歩くと海だった。海から吹いてくる風が寒い。人はほとんどいない。「てか海って、冬に来る場所じゃないよね」と二人で笑う。海面が太陽をぎらぎら反射して、金属みたいに光っている。
二人で砂浜を歩いた。
わたしはあなたの横顔を見る。あなたの視線は遠くを向いていて、たまに下を見たり、海のほうを見たりする。あなたの吐く息が、わずかにもやがかって消える。あなたの頬がうすく影になっている。あなたの歩みに合わせてあなたのコートがこすれて、カシャカシャと鳴る。わたしがなにか言うと、あなたが笑う。
あなたの顔が好きだ。そんなことにいまさら気づいた。かっこいいからじゃなくて、見ていて飽きないからだ。どんな顔をしているあなたも、いつまでも見ていられる。
別れたくないな、と一瞬思ってしまった。だけど、そんなのは嘘だ。長くいっしょにいたから落ち着くというだけの話だ。それを愛と呼ぶことはできても、恋とは呼べないだろう。たぶんわたしは、別れぎわの感傷にひたっているだけだ。あなただって、もうほかに好きな人がいるのかもしれない。だから別れたいと言ったのかもしれない。中途半端な関係をつづけたってだれも幸せにならない。人生まだまだ長いんだから、わたしも新しい恋がしたい。新しいだれかと出会いたい。あなたなんて、ああ、そんな人もいたな、あのときは若かったなって、たまに思い出すくらいでいい。
「なんで笑ってるの?」
あなたに言われ、ううん、なんでも、と答える。
最後だし、せっかくならもっといろいろ話したほうがいいのかもしれない。だけど、話すことが思いつかない。
「あ、カニがいる」とあなたが指差す。「ふつう冬眠してるから、めずらしいよ」
「冬眠?」
「なんて名前だっけ。小学生のときなら覚えてたのに」
「調べてみたら?」
あなたは立ち止まり、スマホで調べはじめた。
「あ、スナガニか! スナガニ!」
砂浜のカニがスナガニって、そのまんまじゃん。やだな、カニを見るたび、今日のこと思い出しちゃいそうで。とうぶん海に来るのはやめとこう。
砂浜は思いのほか長くて、なかなか終わりが来ない。「ちょっと疲れたし、休まない?」と声をかける。
うん、と彼がそのままそこに座るから、わたしも砂浜に座った。座ると、体がぽかぽかしているのがわかった。
波の音が、歩いていたときよりもよく聞こえて、わたしたちはそれに耳をかたむけた。打ち寄せた波が海にもどると、砂浜に黒い跡がのこる。跡はすぐに消えてゆくが、また波が打ち寄せる。同じことのくりかえし。ただそれをじっと見ていた。二人ともしゃべらなかった。
もう、これで終わるんだな。
「海、好き?」と訊いた。
「好きでも嫌いでもないかな。来といてなんだけど」
「じゃあわたしは?」
あなたは顔をうつむけ、恥ずかしそうに笑いながら、いや、それは、とまごまごする。そしてなにも答えないまま、「そっちは?」などとボールを返してきた。
「わたしは海嫌い。泳ぐの苦手だしね」
え、とあなたが呆気にとられた顔をする。ちょっと楽しかった。
あなたはわたしを見て、なにか言いたそうな顔をする。言葉はあるんだけど、気持ちはあるんだけど、どうしても取り出すことができないという顔でむずむずしている。わかる。あなたの言いたいことがわかる。
わたしはあなたの後ろに移動して、座りなおした。背中からあなたに軽く腕をまわす。あなたの気持ち、知ってるよ。だってあなたは、いつもわたしの心のなかでしゃべっているから。別れることが決まってから、あなたのことばかり頭によぎる。あなたはこんなことを言うんだろうな。わたしがこう言ったら、きっとこう返ってくるんだろうな。考えようと思わなくったって、勝手に考えてしまう。
あなたはこんなことを言う。嫌いになったから別れるんじゃない。ほかの女の子のほうが魅力的だから別れるんじゃない。おれは変わってない。君も変わってない。好きだ。好きのままだ。たぶんこれからもずっと好きだ。特別な人だ。だけど、別れなくちゃいけない。気持ちが冷めちゃったから。なんでだかわからないけれど、二人とも、気持ちが冷めちゃったから。だから二人で決めたんだよ。泣く必要なんてない。落ち込む必要なんてない。だって、君はなにも悪くないんだから。
わかる。今日のあなたの顔を見ればわかる。ずっとそばにいたからわかる。世界で一番あなたのことがわかっているからわかる。わたしも同じだからわかる。
結局わたしたちって、ありふれたカップルだったんだ。ずっといっしょにいたからもう飽きちゃって、ドキドキもしなくなっちゃったんだ。ちょっと疎遠になっただけで、心も離れちゃうんだ。胸がはちきれるくらい幸せだった思い出も、ぜんぶごみ箱に捨てちゃうんだ。「元カレ」と「元カノ」になっちゃうんだ。やだよ。そんな呼び方したくないよ。元カレとか元カノとか、なんだか不良品みたいじゃん。失敗作みたいに聞こえるじゃん。別れてもいいけど、あなたを「元カレ」にはしたくない。あなたの「元カノ」にはなりたくない。だけどもう、恋人にも友達にも他人にもなれっこないんだわたしたちは。
あなたの背中に頬をあてる。あなたの匂いをかぐ。
「ごめんね」とわたしは言った。あなたも、ごめんね、と言う。ごめんね。ごめんね。ごめんね。わたしはずっと、ごめんねと言いつづけた。
自分がなにを謝っているのかわからなかった。ただ助けてほしかった。でも、どうしてほしいのかもわからなかった。
わたしは腕を離して立ち上がった。
あなたがわたしを見上げる。いまのあなたの顔もいいな。悲しんでいるような、悔しがっているような、怒っているような、子供みたいな顔。なんだか懐かしい気がする。もっと見ていたいな。
「おれと付き合ってくれてありがとう」
「こちらこそ」
あなたは座ったままでしゃべる。
「ほんとにありがとう」
「うん」
「ほんとに楽しかった」
「うん」
もし、わたしがいま、やっぱり別れたくないと言ったら、あなたはわたしの彼氏でいつづけてくれるのかもしれない。ちょっとくらいは、うれしそうな顔もしてくれるのかもしれない。でも、だからこそ、わたしはそんなことが言えない。
「じゃあ、先に帰るね」
「うん」
わたしはひとりで土手に上がり、駅のほうへ向かう。
海を見下ろすと、海面いっぱいに黄金色の日差しが散らばっていた。溶けるようにやわらかい潮風が吹く。3時か4時くらいだろうか。明るいけど少し暗い。まだ青さが残るこの時間帯のほうが、夕方よりも切なく感じられる。静かで、透き通っていて、暗くなる準備ができていて、なんだか素っ気なくて、ちょっと不気味だ。まあ、たったいま別れたばかりだからかもしれないけれど。
真昼間でもなく夕方でもない、この時間のお日さまを指す言葉は存在しない。さみしいね。名前がないなんてかわいそうだ。なにかぴったりな言葉があればいいのに。
元カレや元カノよりももう少しだけ、気の利いた言葉が。
電車に乗ったとき、あなたの部屋の合鍵が、まだうちにあることを思い出した。持ってこようとして忘れていた。
どうしよう。そのためにわざわざあなたに連絡するのもおかしな話だろう。
ひとけのない車両に、微熱のような日差しが流れ込んだ。来るときはすぐだったけれど、ひとりの帰り道はあまりにも長い。だけど、このままずっと電車のなかにいれたらいいのにと思った。どこにも停まらず、ゆっくり走りつづければいいと思った。涙がずっと、にじむように少しずつ、あふれてくる。
わたしたちの関係は今日で終わったんだ。もう会うこともないんだ。ぜんぶ思い出になったんだ。鍵は金属だから、たぶん燃えないゴミに出すのが正解だよね。